一時期私は、親の会社に就職したことをずいぶん後悔しました。
仕事はあわない、環境は最悪、自分は使えない人間ではないと思うけど、ここにいれば自分の才能は開花しないだろうという思いを強く持っていました。
そうするとどうしても、後悔の念が頭に湧きあがってきます。あの時もう少しきちんと考えて、自分の道を決めればよかった・・・と。
後悔しても仕方がないことはわかっているのですが、ついつい思考が過去へ行ってしまいます。
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Contents
「選択」に後戻りはない
より悪いシミュレーションはしない
AとBという選択肢があったとします。そこでAを選んで上手くいかなかったとき、もし選択した過去に戻ってBを選んでいたら・・・なんていう思いをいだくことはよくあります。この時に何が起こっているかというと、頭の中では「Bを選んでいたらきっとこうなって、ああなって、今ごろこんな状態なんだろうな」なんていうシミュレーションが成立しているんじゃないかと思います。そういう状況のときに、「Bを選んでいたら今以上にひどい状態かも」という想像は、不思議なことをしないものです。実際に選んだAが良くない選択と感じたら、Bを選んでいたら今よりかはマシだっただろう、と考えがちです。
しかし、実際のところはそんな都合のいい(?)話はなくって、Aを選んだから思ったよりマシな選択だったという仮定も成り立つわけです。その当時の確率は50:50。しかし、どこまで行っても「Bにすればよかった」という思いは追いかけてきます。なぜならば、「Bを選べば今よりヒドイ」ということを証明できないからです。だから、「Bを選べば今よりマシだった」という思いにすがりついてしまうのです。これは、私は心の防御反応だと思っています。Aという選択肢を上手くこなせていない自分の問題ではなく、過去の選択が悪かったということで今の「自分が現実に適合できていない」という現実から逃れようとする逃避行動ではないかと私は分析しています。
ただ、悲しいかな「あの時あっちを選んでいれば」という意味のない過去への悔恨を引きずっていても、今の現実は何一つよくなるはずもありません。それでも過去にこだわるのは、まさに今目の前に起こっている問題から視線を逸らそうという無意識の行動です。
現実と個性がズレ始めた時
この状態、どうやらたとえば登校拒否のお子さんと近い心理状態ではないか、と私は考えています。あからさまないじめが登校拒否の原因というイメージが強いと思うのですが、実際は特別ヒドイいじめを受けていなくても、学校に行くのがツラくなるお子さんも結構多いようです。こういった子たちは、非常に感受性が強く繊細で、普通の子供ならスルーできることもスルーできずにこだわってしまったりとか、周囲に強く気を使いすぎる結果、人と付き合うことがしんどくなって学校に行くのを嫌がったりするようです。
これまでは、そういった繊細で感受性の高い自分と折り合いをつけながらやってこれたのですが、たとえば、小学校であるとか、中学であるとか、高校であるとか、どこかのタイミングで現実とのつじつまを合わせられない限界点がやってきて、糸が切れたように学校へ行くことを拒否し始めたりするのではないかと思います。こういった子たちが、再び学校へ戻り、人とうまく付き合うためにはどうすればいいのでしょうか。それは周囲の環境を整えるというのも一つのきっかけになるとは思うのですが人は次々と活躍のステージを変えていきます。都度、環境は変わっていくので、結局は本人が周囲の情報への反応の仕方を変えるしかないんですね。そこにはそういった状態に陥るお子さん特有の思い込みがあって、その思い込みを破る必要があります。
現実と自分の考えがあわなくなり、一旦彼らにとっての社会である学校という場から足が遠のく。
そんな彼らが復帰するのはたいてい、周囲の気遣いはあれど、彼ら自身の事実や刺激に対する反応が変わるというのがきっかけになる。
このサイクルが、実は悩み多き跡継ぎ・後継者の方のヒントになるのではないかと私は思っていまs。
大事なことは精一杯生きているか?
後継者・跡継ぎの生き方
家業を持つ家庭に生まれ、後継者・跡継ぎとして生きている人々にとって、これは自分にとっては宿命だと感じている人も多いかもしれません。しかし一方で、家業を継いでほしいと親に頼まれてなお、それを拒んだ人もいます。一旦、家業を継ぐと会社に入ったものの、合わずにやめていった人もいます。家業を継ぐのは嫌だけど、親と同じ仕事をしたい、と家業を継がず同じ業種の会社を立ち上げた人もいます。似たような環境で生まれた人も、それぞれに違う人生を歩んでいます。その選択の結果に関して、感想は人それぞれです。そういった選択・決断を、「こうしてよかった」という人もいれば、「後悔している」とか「ああすればよかった」という人もいます。また一方では、親とたもとを分かち、自分の選択した道で一定程度の満足できる成果をあげたとき、過去に戻って親孝行をしに返ってくる人もいます。
なんとなくいろんな人たちを見て、また自分の経験を振り返って感じるのですが、どんな選択をしたとしても後悔し続けているあいだは幸せになれないな、ということだけは確かなんじゃないかと思いました。
私は、人生の究極の目的は、幸せな生涯を送ることだと思っています。そして幸せを得るには、幸せを求めるとうまくいかないと言います。変な話ですが、幸せになるにはいったん幸せになりたいという感情を脇において、何か夢中になることを見つけるのがコツなのではないかと私は思っています。もしその考えが正しいとすれば、「後悔」し続ける人生は少なくとも夢中になる事とは反対にあるようにも思えます。
追っても意味がない「後悔」という感情で停滞している今の状況は、実は未来という思考を遮断するいわばひきこもり状態ではないかと思います。そこから抜け出すには、登校拒否のお子さんが勇気を出して踏み出す一歩と同様、社会や自分の周囲への反応の仕方を変える必要があるのではないか、と思うのです。
後継者・跡継ぎとしてのゴールを意識しよう
イマドキの30歳代、40歳代のひとたちが自分の人生に何を求めているのかは、私はわかりません。より良い住まい、笑顔のある家庭、たくさんの収入、ステイタスなど、求めるものはいろいろあるかもしれません。ではそこから時計を少し進めて、臨終の瞬間をイメージしてみましょう。「ああ、いい人生だったな」と静かに自分の生涯をかみしめながらこの世を去るために必要なものは何があるでしょうか。何かをやり遂げた感覚でしょうか?あるいはいろんな人たちとの絆?きっといろんなものがあるんじゃないかと思います。ただ、今から考える人生と、死ぬ間際から逆算する人生、求めているものが微妙に違うような気がするのは私だけでしょうか。
たとえば、今気になることと言えば、もしかしたら会社の先行きかもしれませんし、親との確執だったり、従業員との関係だったり、かなりリアリティのある話への対処が中心になっているかもしれません。しかし一方で、臨終前に考えることは、なんだかわからないけど「やりとげたな」という感じの印象を受けるものが多くはないでしょうか。いろんなことに一生懸命にぶつかり、自分が持てる最大限の力をそこで発揮したことに思いをはせるんじゃないかと思うのです。少なくとも私はそうで、結果も出ればありがたいですが、それ以前に「一生懸命に生きたな」という感想こそが最も大事なことだと思っています。
だから私は、幸せになるコツは夢中になる事が幸せへのコツと考えているのです。
とすると、後悔をして過去を振り返ってばかりというのは、もしかしたら死ぬ前でも同じパターンの思考を繰り返しているような気がします。「あの時ああすればよかった、あの時はこうすればよかった」臨終5分前に走馬灯のように流れるのが後悔の念ばかりなんて、私はご免です。やっぱり、うまくいったこともそうでないこともあったけど、自分の持てる力を振り絞って生きた人生だから、悔いはない。そう思って逝きたいと思います。
大事なのは「自分を活かす」ということ
登校拒否のお子さんが社会へ復帰していくときに私が大事だと思っているのは、今よく言われる自己肯定感だと思っています。自己肯定感が低いと、自分の主張を周囲に伝えることが難しくなりがちです。自分なんて・・・という思いがあるから、みんなが「カレーを食べよう」といったときに、「自分は牛丼の気分」といった主張をするがすごく難しくなるんじゃないかと思っています。こんなこと言ったら迷惑かける、という思いが優先されるんですね。そして、どんどん自分を押さえてしまって、学校などのコミュニティでは常に自分を押さえてみんなの意見を優先するからしんどくなってくるんです。何がしんどくなるかというと、自分の想いをくみ取ってくれない自分との関係です。登校拒否って表面上は対人関係で起こるんですけど、内面的に見ると自分で自分を無視するという状況で起こってるんだと私は考えています。彼らが社会にうまく合わせていくためには、心の奥底に沈めた自分の本心にまずは自分が気づきいたわり、それを大事にすることがひつようなんじゃないかとおもいます。
後継者・跡継ぎの場合はやはり、自分の後継者・跡継ぎという立場を優先するあまり、自分のことをないがしろに扱いがちです。本当のところ自分はどうなの?と考えることを避けて生きている人がけっこう多いのです。その結果が、たとえば過去にばかりこだわってみたり、会社の中で自分らしく振る舞えなかったり、自分の能力をしっかり発揮できなかったりする自体が出てくるわけです。そこで私がおすすめするのは、ぜひ自分の本心に従ってワガママになってくださいね、ということです。何よりも大事なのは自分です。まずはその自分を大切にすることがスタートです。
選択より大事なもの
選択を重視する必要はないのかもしれない
冒頭のお話で、AとBという選択肢があればそこが分岐点である、的なことを書きました。良くも悪くも、どちらかを選んだ時点でもう一つの選択肢は消えてなくなったわけです。ただ、当時とても重要に思えた選択も、本当はそんなに大事ではないのかもしれない、と最近思うことがあります。たとえば、家業を継ぐ、継がない問題は永遠のテーマです。なんとなくこのことがとても重要なことのように感じていますが、ある人は家業を継ぎたくないから起業したのに、気が付けば親の会社を経営してた、なんていうつわものもいたりします。企業を経験したからかもしれませんが彼は、当初考えていたほど家業も悪くないと思った、と言います。
どうやら、私たちは環境を言い訳にしている一面はあるんじゃないか、と最近思うようになりました。私の場合、思い通りにいかないことがおこると、親の会社を継いだからこんなことに・・・となって、自分が選んだことなんてすっかり忘れてしまったりしてることがしばしばありました。どうやら、物事がうまくいかないとき、何かのせいにして自分を責めずに済む方法を、無意識に探していて、家業を継いだとか、後継者・跡継ぎの特殊性とかは、その環境にいる人が少ないぶん、その環境のせいにしやすいのかもしれないな、と思うことがあります。
たぶん、親の会社を継いでも継がなくても、きっと今と似たような問題にどこかでぶつかり、それを乗り越えることでちょっとした幸せと充実感を感じ、そしてまた新たな壁にぶつかり・・・という日々を繰り返した結果、臨終前に「やりきった」と感じるような人生になるんじゃないかな、と考えています。だから、家業を継いだから・・・という思考はいったん止めてみる。そういいたい自分は、何から目をそらそうとしているのか?と考えてみる。そういう癖をつけると、自分の痛い部分を向き合うキッカケになるんじゃないかと思います。そしてその痛みを克服した時、私たちは次のステージへの階段を上り始めるような気がするのですがいかがでしょうか。
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