後継者・跡継ぎ・二代目社長のなかには、生きづらさを感じている方も多いのではないでしょうか。
会社を預かる身ではあるものの、親との関係のなかではおしくらまんじゅうを続けている。
社員との関係も今一つしっくりこず、自分が見ている未来を共有できる人がいない。
この現実で起こっているかのように見える問題。
私たちはこれに一つ一つ対処していくわけですが、どこまで行っても問題は解決しない苛立ちを感じているのではないでしょうか?
もしそう感じているとしたら、根本的なアプローチを変更する必要があるのではないでしょうか。
私の著書です。
関心を持っていただいた方は、画像をクリック。
Contents
ある夫婦の話と親子経営における親子の確執
ある夫婦が、自分のパートナーに対し「休日に朝から晩までソファでごろごろするのはやめてほしい」と考えたとします。
あなたならどうしますか?
口うるさく言うとか、ソファーをどけてしまうとか、わざとその前で掃除機をかけるとか。
結果は、最悪の結果だと大げんか。
マシな結果だと、渋々その場を後にする、という感じでしょうか。
そのマシな結果でも、しばらく目を話していると、きっとパートナーはまたソファに戻ってくるのではないかと思います。
何が言いたいかというと、他人を変える事など100%できないということです。
もちろん本人が内面的な変化の途上にあって、その最後の一押しにあなたの言葉が聞くことはあるかもしれません。
しかしそれは、本人が変わろうと思わない限り起こりません。
そして人は、他人に言われると、言われた通りにはしたくないものです。
この関係は、夫婦のみならず、親子でも同じです。
後継者・二代目社長と、先代・親・創業社長との対立はこのような形で起こります。
出来ないことにこそ人は執着する
人間というのは厄介なもので、できないことほど執着しがちです。
対して興味もなかったものでも、限定品だとついつい行列に並んでしまったり、逆に手に入れられないとどうしても欲しくなったりするものです。
私たちは、会社の事業承継という小さな世界の中で、手に入れられないものばかりを必死に追い求めていると言ったら言い過ぎでしょうか。
自分の考えたビジネスプランも、「どうぞどうぞぜひやってください」と言われれば、やる気も失せるのに「やってはいけない」と言われると気になってしょうがない。
もちろん、後継者・二代目社長がやろうとしたことすべてがそうだとは言いませんが、実はどうでもいい事でも親や古参社員に制止されると、意地でもやらずにはおれないということもあるのではないでしょうか。
こうなると不思議なもので、「親父に止められたあれさえやっていれば、売上は激増したはずなのに!」なんて言う幻想にとらわれてしまうから怖いところ。
実はそう感じることで、自分へのディフェンスが完成するのです。
それは、「あのとき、〇〇をやろうとしたのに、させてもらえなかったから」会社の状況が悪くなったんだ、という言い訳ができるのです。
自分で自分がこういうサイクルを創り出していたと気づくまでには20年くらいかかったでしょうか。
それは自分の気持ちがそこそこフラットになるまでにかかった年数と同じと言えます。
後継者・二代目社長は成果を生まなければ本当に価値がないのか?
〇〇できない自分は価値がない、という思い込み
後継者・二代目社長がなにかをやる、やらない。
そこから成果を上げる、上げない、ということに異常なほどにこだわるのは理由があります。
ある意味サラブレッドですから、社会は後継者・二代目社長に、先代・親・創業者と同等、もしくはそれ以上の成果を期待しているように見えます。
そちて私たち後継者・二代目社長はそれに応えて初めて、人としての価値というか、生きている意味があるかのような錯覚をしている方が非常に多いように思います。
それを如実に表すことがあります。
実は、後継者・二代目社長には、自分が思い描く将来の夢を持っていないケースが非常に多いのです。
もちろん、教科書的に「会社の売上を〇%上げる」とか「上場を目指す」とか「拠点を全国に展開する」とか答える人は多いのですが、それをワクワクしながら延々と語る人はあまりいません。
本当の自分の夢ならば、聞かれれば、ここぞとばかりにひたすら語るものです。
しかし、真顔で「ああ、私の夢?それは売上〇億円の達成です」といって、黙り込んでしまう様子を見ていると、夢というかむしろ誰かから押し付けられた目標(ノルマ)にしか思えません。
言い換えるならば、多くの後継者・二代目社長にとっての優先順位の高いタスクは、自分の夢の実現というより、社会の期待に応える(というより周囲にガッカリされない)ということになっているように見えます。
その期待に応えられない自分は、価値がない。
だからとにもかくにも、まずは社会に認められる存在にならなければ次に進めない、と感じてしまっているのです。
しかし、社会はあなたに、会社を大きくすること求めているのでしょうか?
社会があなたに期待する事
もしかりに、社会が後継者・二代目社長に何かを求めるとしたら、私たちがもっている能力を活かしてよりよい社会を作ることではないでしょうか。
そして社会に求められることがやっていれば、恐らく人もビジネスも前に動き出すんじゃないかと思います。
だから私たちは、親から譲られた会社をどうこうしようというよりも、そういった物や人や機会と自分の才能を活かして社会に何かしら良い影響を与えることを考えていけばいいと思うのです。
この事を直視するのはとてもつらい事なのですが、親との確執をおこすような会社改革というのは実は、自分のための改革であることがほとんどではないでしょうか。
もちろん、それが同時に社会に何かを還元するということがあるのは否定しません。
ただ、動機のなかの大きな部分において、自分のため、ということになると途端に周囲との軋轢を生みやすくなるので注意が必要です。
親子の確執の真相
他責×自分本位=周囲との衝突
これまで見てきたように、事業承継における親子の確執が起こったとしたらベースにはこういった要素があります。
まずは他責。
これは物事の原因を他者に求める考え方です。他者が悪いんだから、他者が改めるべき。すごーく意訳するとそういう思考です。
こういうと、「何でもかんでも自分のせいと考えるなんておかしい」という人もいると思います。
しかしよく考えてみると、相手がどんなふるまいをしたにせよ、不快を感じているのは私たちです。
不快という感覚を「感じている」のは私達自身です。
これは例えば、不快に感じなければ大した問題にはならないわけで、不快にならない方法もあります。
それは相手に何か自分に都合のいい行動や思考を期待しない、ということです。
自分にとって都合よく物事を解釈し、行動してくれることを期待するからそれが裏切られた時、私たちはがっかりするわけです。
方法はともかくとして、感情を周囲の出来事や環境に左右されないようなトレーニングを積むと、現実的な状況が何一つ変わっていなくとも、まったく気にならなくなります。
もう一つの、自分本位というのは何か行動を起こすとき、あるいは何かを考えるとき、自分のことだけ考えている状態を意図しています。
たとえば自分が成果を上げるために必死になって、周囲が見えなくなっていることはよくあるものです。
恥を忍んで吐露すると私は、ついこの間まで自分本位というか、自分のことしか考えてませんでした。
それでも上辺は「人のために」とか思いこんでるから、厄介です。
これは何にお金を使っているかを見るとなんとなくわかります。
私は自分磨きにばかりお金を使って、人とのコミュニケーションや、人を喜ばせることに対してお金をあまり使ってきていませんでした。
自分の可処分所得を、どんな思いでどこに振り向けてるかをチェックすると浮かび上がる自分像が見えてくるんじゃないかと思います。
他責と自分本位。
このいずれかを手放すことができれば、周囲といい形で調和することができるとおもいます。
自分が変わるとおこる周囲の変化
簡単な実験をしてみてほしいのですが、周囲の人にいつもと違う反応をしてみてください。
いつもならもごもご、としかあいさつしない間柄なら、大きな声であいさつをしてみる。
いつもなら目を見て話さない相手に、よそ事をせず目を見て話してみる。
いつもならやりすごすゴミを拾ってみる。
まあどんなものでもいいのですが、いつもと違うふるまいをすると、たいてい周囲の人は何かしらいつもと違う反応をするものです。
自分が変われば、相手は変わる。
これは別に、たんなる道徳的な観念ではありません。
人間の行動というのは、いわばプログラムのようなものですから、ある入力をすれば、同じ人であれば同じような行動を返すのが一般的です。
だから入力を変えてやれば、相手の行動は変化します。
ここで始めに立ち返ってみましょう。
ソファで寝てる人にいつもと違う行動を期待するなら、自分の行動を変えてみてください。
たとえば、「いつも、お疲れ様。ありがとう」なんて言って毛布を掛けると、パートナーのその後の反応はたぶん変わります。
パートナーはきっと、そんな風に気遣われると、何か自分も返さなきゃ、と思うものです。
すごく極端な言い方ではありませんが、人間の思考や行動はコンピューターのプログラムのように、正確に過去のパターンをなぞるものです。
それを変えるには、違うインプットをすればいいだけです。
少し話はそれましたが、ここで言いたいのは、自分が変われば世界は変わる、ということです。
日々の思考の癖を変えていく
親子の確執を取り払う最も確実な方法
ここまでお話ししたことをまとめると、親子の事業承継において、親子の確執を払しょくする最も確実な方法は、自分が変わることです。
もう少し突っ込んで言うなら、自分の反応プログラムを変化させることです。
いつもなら、こういう入力(周囲の環境からの刺激)があったら、こう反応するという自分のプログラムを私たちはもっています。
それをちょっと違うプログラムに書き換える必要があるわけです。
それは例えば親に何かを言われても、感情的にならないとか、
自分の案が採用されなくてもストレスを感じないとかいう感じのことです。
ストレスや感情に溺れなければ、別の案が浮かんだり、あるいはもっとスケールな大きな思考が可能になったりすることもよくあります。
すると、自分の価値を保たねばならないとか、
社会の期待に応えなければならないとか、
そんな小さなとらわれから脱出することが可能になります。
本稿のタイトルの答えを示すとすれば、それは自分の過去の価値観と言えるのではないでしょうか。
そのためにはまずは自分がどんなOSで動いているのかを自覚することがはじめの第一歩です。
そこからさらに、OSの不都合な部分を改修していく。
それはある日突然よくなるという外科手術のようなものではありませんが、漢方薬的にじわじわとしかしある臨界点を超えると一気に変化を体感するものだと私は認識しています。
そんなところへ進むのは、もちろん自分でもできます。
ただ一人では皆目見当もつかないということであれば、仲間と語り合うことで気づきを得ることは可能だと思います。
—————————————–
私の著書です。
関心を持っていただいた方は、画像をクリック。