昨日、1時間ほどClubhouseという音声SNSで若林由香さんと語りました。
テーマは「覚醒」です。
まあ、覚醒って何ぞや、って話だと思いますし、親子の事業承継ブログに関係あるのか、ってお声もあるかもしれません。
けど実際に、家業を継ぐということを決めていろいろ悩んだ自分としては、結構いろんなことを学び、到達した一つのゴールだけに個人的にはかなりの思い入れがある話です。
今日は、少しばかりそのお話と、直近のClubhouseでの登壇予定をご案内したいと思います。
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Contents
家業の後継者として自分は不適格!?
はじめての挫折
子どもの頃を思い出してみると、そこそこうまくやっていたように思います。もともと幼稚園のころにはいじめを体験して、それ以来、人に嫌われない方法を自分なりに編み出してたように思います。あまり成績は良くなかったですが、高校受験、大学受験にさいしてはいつも三年生で火がついて、夏休みに頑張って人並みな学力にまでは引き上げられたと思っています。そういう意味では、そんなに大きな困難もなかった学生時代でしたが、今から考えると、これって「自分一人でやる事」なので自分さえがんばればいい、ということで上手くいっていたように思います。
しかし、圧倒的な挫折感を感じたのが、就職一年目。私は大学卒業して、特別努めたい先もなかったので、なんとなく親の会社の会社に勤めることになったときです。家業はいわゆる町の保険屋さん。保険というのはお客様が積極的に買いに来る商品ではないので、営業力が全てです。その営業でつまづきました。キャリアのスタートは飛び込み営業だったのですが、まったく鳴かず飛ばず。入社半年ですでに絶望のどん底でした。またこれが、人生においてはじめての強烈な挫折感でしたからなかなかにきつかった。もはやこの仕事、自分には無理、と思ったのですが家業にいったん入ってそれを辞めるというのもなかなかに勇気のいるものです。普通の会社なら辞めてしまえば、その職場の人間関係はゼロにすることが可能ですが、親子だとそういう訳にもいきません。親に会うたびに劣等感と罪悪感がこみ上げることでしょう。この時期わたしは、八方塞がりな状況の中で金魚のようにあっぷあっぷしながらなんとか息をしていたように思います。
できない劣等感を隠し通せ!?
家業の基本的な仕事の技術に対して圧倒的な劣等感をキャリアはじめの半年で自分に刻んでしまったわけですが、元々内向的だった私が、さらに内にこもりがちになりました。当時、対人恐怖症のような状況でもあり、うつ病的な症状も出始め、なかなかに追い詰められた状況でした。それでも、好むと好まざるとにかかわらず、私のゴールは家業を継ぎ、発展させることだと思っていました。だから、とにかくダメな自分でも体裁は整えなければならない、と考えました。そこで「プレイヤーで優秀でも、コーチとして優秀とは限らない」的な言葉をたよりに、なんとかマネージャーとして成長できないか、あるいは営業というものをなくして、会社の売上を上げる方法はないかと学んだりし始めました。
それと同時に、営業を上達させたいのに、お客様の前に立つと動悸が激しく動けなくなる情けない自分、すでにお取引のあるお客様でさえ固く緊張してしかコミュニケーションの取れない自分を何とかしたいと思いました。いえ、実は、あとから冷静に考えてみれば、お客様と話せるかどうかはどうでもよかったんです。自分の面子を保つため、自分の手柄で会社の業績をあげたかったという思いが強かったように思います。自分の劣等感を周囲に見せないように、強く大きい自分を見せようと必死になっていたように思います。
この時に切望したのが、ビジネスに強い自分でありたい、ということでした。それは、短絡的に言うと、たくさん稼ぐ人、ということになります。つまり、お金持ち。いつしか、自分の夢=大金持ち、という変な公式だけが頭の中に残り、ジョセフ・マーフィーやナポレオン・ヒルなどの成功哲学をやたらと学ぶ方向に舵を切り始めました。
簡単に、苦労をせず、儲けたい?
夢に酔う
本当は、ちゃんと会社を継ぐに値する自分でありたい、という思いがベースにあったはずなのですが、いつしかそんなことはどうでもよくなってとにかく「楽して儲けたい」という変な感じに翻訳されていました。今から考えると、お金がいくらあっても日々の活動に充実感を感じられなければあまり意味がないと思うのですが、当時は「お金がたくさん入ってくる」という結果だけを追い求めていました。しかし、追えば追うほど逃げていく、ということはけっこうあります。
簡単に業績を上げられるというノウハウ・コンサルをする、という人にお金をだまし取られたり、ずいぶんとふらふらしました。それを見ていた父である先代は、何をやってるんだ、と思ったことでしょう。今ならじたばたして本質的な問題と向かい合わない自分を叱ってやりたいぐらいですが、そういったことを当時父から指摘されるとついつい反抗的になったように思います。次第に私は、「新しい時代の売り方があり、それにチャレンジしている」という大義名分を盾に、どんどんと泥沼に入っていったように思います。
この時の私の仕事の目的というか、生きる目的その物は、「親や世間に、自分が後継者としてちゃんと能力があるんだ」と認めさせることで、働くことにも、お客様へも、それ以外の様々な事にも関心がなかったように思います。使うあてのないお金をただ稼ぐ。それも機械的に。そんなことを夢に見ていたような気がします。
目標設定の誤り
さて、最近になって感じていることは、この時は「方向性」を完全に誤っていたな、と思います。とにかく稼いで、認められる。もっというなら、「二代目社長はポンコツだ」とか「二代目社長はバカ息子」とかいう評価を受けたくない一心で、クレバーな経営者になろうとしていたような気がします。つまり、あくせく働くのではなくスマートに稼ぐ。それこそ、プールサイドでスマホでポチポチやるだけで本当に稼げるなら、それでいいと思っていたように思います。
しかし、改めて思います。そうやって稼いだお金、いったい何に使うんだろう?と。私はさほど住むところには強いこだわりはありませんが、それでもそこそこいい家に住みたいというぼんやりした憧れはあります。クルマだって、いいものに乗りたいとか、いい時計やいい服、ぜいたくな生活にも人並みに「やってみたいなぁ」と思うのですが、実はそのために何かを犠牲にしてまで働きたいというほどでもないように思います。楽して稼ぎたいというのはまさにそういう感覚で、稼ぎに対して何か(自分の時間や労力)を犠牲にしないということなんだと思います。ただ、定年退職などをされた方々を見ていると、やっぱり毎日が日曜日というのも張り合いのない生活のようです。働けて、それが人の役に立つというのは、それなりに喜びにつながります。
ふと、ある時こんなことを考えたのです。自分が生きる目的って何だろう。お金を儲けて贅沢するため?すごい人として羨望を集めるため?どれも魅力的ですが終局的には、自分が生涯を閉じるとき「ああ、充実した一生だったな」と思えることが今生きている目的じゃないかな、と思ったのです。もう少し平たい言葉で言うと、幸せな人生を送る事こそが自分の生きる目的じゃないかと思ったのです。
私たちにとって、親の家業をしっかり継ぐということはとても大きな意味のある事だと思いますが、それは人生をしあわせに送る手段の一つでないかと思います。そう考えたときに、今までの考えがどこか小さなことのように感じられ始めました。この時点で、親との確執がどうとかいうこともあったのですが、妙なゆとりをもって親と接することもできるようになりました。この前後の違いは一体どんなものがあるのでしょうか。少し自分なりに考えてみました。
思考の罠から抜け出す
嫌な人やイヤな事、不安な事や心配事は頭の中で大きくなる
※以下の提案、夜寝る前には読まないでください。眠れなくなるかもしれません。ここに画像を挟んでおきますので、ベッドで読まれてる方は明日にでも改めて読んでいただくことをお勧めします。
唐突ですが、記憶にある嫌な人や、過去に体験した嫌なことをちょっとだけ思い出してみてください。
あるいは、将来の不安や心配事を少し思い出してみてください。
あ、もちろん我慢できなくなればいつでもやめていただいてオッケーです。
さて、嫌な思い出として思いつくものがあると、脳内に映像化されたり、あるいは声や音が聞こえたり、においや味を感じる人もあるかもしれません。そのうえで、胸やお腹の中でもやッとする感情が沸き上がったりするかもしれません。私たちの身体はあたかも、それが今起こっているかのように感じ、身体も反応します。
けど言うまでもなく「過去の記憶」はあくまで過去のものであり、「未来の不安」はあくまで未来のものです。
すでに終わった話と、まだ起こっていない(あるいは起こりさえもしない)ことで私たちは感情を支配されます。そして厄介なことに、一度こういうネガティブなことを考え始めると、なかなかそれが頭から離れません。しかし私たちはその感情の中にどんどん入っていって、その感情はどんどん話を大きくしていくわけです。これ、思考の罠と呼ぶことにしましょう。
こういった思考の罠が頭の中に渦巻き始めると、この思考を止めようとすればするほど、思考はグルグル回り、台風のように勢力を拡大していきます。もうそうなると、他の楽しい思い出を思い出してやり過ごそうとしても、やり過ごせないほどの勢いになってきます。
何が言いたいかというと、「イヤな記憶」と「未来の不安」は事実を必要以上に大きく見せる傾向がある、ということなのです。
たとえば、明日、人前で簡単な挨拶をしなければならないとしましょう。持ち時間は3分です。
人前で話すことになれている人ならともかく、そうでない人は、気になってしょうがない場合もあるでしょう。何をどんな風に話せばいいのか、服装はどうしようとか、こういう話をしたら周囲はどんな反応をするのだろうかとか、もう少し原稿を練ったほうがいいのだろうかとか、なれない人はスピーチの依頼を受けるとそんな風に夜も寝られなくなる人が多数いると思います。
しかし、現実はどうかと言えば、「3分、人前で話す」ということ、以上!です。
シンプルに言うなら、3分前に出て何か話せば、そのお役目は終わります。たった3分のガマンで終わる事を、私たちは、何日も悩んだり、不安を感じたりするわけです。なんだか割に合わないと思いませんか?
この思考の罠と決別する、あるいは、「ああ、こんな思考があるんだな」と認めて、その時感じる感情や体感覚をしっかり感じてあげる。すると、意外と心が静まるものです。もちろん不安が消えるわけではないかもしれませんが、不安という適度な緊張感を持ちながらスピーチに向かうことができるのではないかと思います。
さて、嫌なことを思い出すと寝られなくなりますよ、と冒頭で警告したにもかかわらず、ここまで読んで嫌なことを思い出して腹が立ったり、嫌な思いがしたりして練られ亡くなった方には、この感情を落ち着けるコツをお伝えします。それは、湧きあがる感情をしっかり感じることです。その感情に蓋をしようとするのではなく、その感情を何かで消し去ろうとするのでもなく、静かに自分の感情や思考に耳を傾けて、傍観者のように眺め、感じてみます。そうすると次第に落ち着いてくると思うのですが、いかがでしょうか。
「心配」や「不安」への対処
心理学者のラス・ハリスによると、心に浮かぶ心配や不安へは、何の対処も必要ないと言います。誰しも心配は不安は感じるもので、世界に名を残すような革命家だって「そりゃあ怖いさ」という言葉を残していると言います。大事なのは、心配や不安、恐怖の感情にからめとられるのではなくて、その感情を感じたうえで動けばいいということです。もともと心配や不安、恐怖といった感情は、人間を「危険から遠ざける」ための超高感度な危機察知センサーです。これは、未体験な事にはすべからく反応しますから、新しいことを始めるにあたっては不安は感じてあたりまえなんです。しかし、そんな自分の脳内の危機察知センサーが、不安をより深刻なものとして伝えようとする数々のストーリー(想定される最悪の事態)で私たちは説き伏せられて行動を辞めるのか、その警告を聞きながら前に進むのか。ここが、自分にゆだねられている選択肢ではないかと思います。心配や不安や恐怖は、「とまれ」の合図ではなく、「注意して進め」の合図だと知ると少し気持ちは楽になるかもしれません。
「場」は自分とそこにいる人たちで作っている
こんな話を聞いたことはないでしょうか。自分にとって嫌いな人は、自分の嫌な部分、あるいは自分が抑圧している自分の資質を反映しているという話を。もっとシンプルに言うなら、嫌な人の嫌な行動っていうのは、自分もやりがちだけど自分では受け入れられない行動である、ということです。
たとえば、私の場合は、私の言葉を全く聞いているように思えない(理解しようとしているとは思えない)ように見えた親に対して、強く反応したように思います。あれだけ言ったのにわかってくれない、と感じることがしばしばありました。これは、自分の意見を尊重してくれないという思いとともに、けっこう大きな親子関係の壁だったように思います。しかし、私は例えば妻との会話で同じことをやっていたようで、長年妻からは「あなたはいつも上から目線」と言われていました。自分ではどこが上から目線なのか全くわかりませんでしたが、親との関係性の中でああ、親が自分に向けるこういう態度を、私は妻に対してやっていたんだな、とわかったというエピソードがありました。心理学上はシャドウ(影)といいますが、私が知覚するものはすべて自分の内面を表していると言います。人は自分が見ようとしたものしか見ませんから、見える(というか認識できる)ことは自分が関心のある事です。そして自分は自分の事に一番関心を持っていますから、大袈裟に言うとまさに私たちが知覚している世界は自分そのものです。
キライな人がいるならば、その人の気になる嫌な部分は、私たちに自分の嫌な部分を見せているということがわかると、その人を嫌いではいられなくなりますし、過剰な反応をすることも減ってきます。
私たちにとっての覚醒とは?
思考の罠から抜け出す
「覚醒」という言葉はとても強い言葉だと思います。私のイメージでは、今立っているところから一つ上に階段を上がって世界を見ることです。誤解を恐れず言うなら、思考の罠から抜けると言ってもいいかもしれません。私たちは、事実を事実としてとらえることをせず、事実にいろんな尾びれや背びれをつけて受け止めています。先の例でいくとたった3分人前で話すというのが、事実。けどそこに、「ここで何を話すかで自分の評価に影響する」とか、「これだけは話してはいけない」とか、「笑いを取らなければいけない」とか、「それなりの含蓄のある言葉を選ばなければならない」とか、いろんな意味付けをします。逆に、「途中で何を話すかわからなくなったらどうしよう」とか「足が震えているのを人に悟られたくないな」とか、起こったわけでもないことを必死に心配したりもします。どっちにしても3分のガマンをするだけなのに、何日も前から悩み、その後何時間も自己嫌悪に陥る。こういった、思考の中で自分を追い詰め、苦しめ、ハードルを上げるのを辞めましょう、というご提案がとりいそぎの「覚醒」です。
思考の罠から抜け出すと、世界は思った以上にシンプルです。
雨が降る日は、「雨が降って鬱陶しい日」から、「(たんに)雨が降っている日」にかわります。収入が減ったとしても、「単に収入の額面が減っただけ」で誰かのせいにすることもありません。私たちは現実を受け止める前に、「対策しなきゃ」とか「こうしてきたからこんなことになった」とか責任者探しをしたりしがちなのです。収入が減ったら、誰が悪いでもなくまずはその事実を受け止め、その状態をしっかり見つめます。そのなかで自分がどうしたいかを見定め、思う行動を起こす。ただそれだけです。おこったことと自分をむやみに紐づけないことで、自分を責めることなく、やれること、やりたいことを思い存分やる、というメンタリティに徐々に変わっていく。これが覚醒です。
人生はエンターテイメント
人生は映画のようなエンターテイメントです。いろんなことが起こります。たぶんこれを止めることはできないと思います。
どんなにいい事をしていても、どんなに輝かしい未来をイメージしてみても、事故や災害は起こるし、病気にもなる。これを100%避けることはたぶん不可能じゃないかと思います。ならば、そういった様々なハプニングがある前提で、その人生をどう充実させるかがとても大事になってくると思います。ストア派の元奴隷の哲学者エピクテトスは、自分がコントロールできることだけに注目することで、そこに自由を見出すことができると言ったようなことを言っていたようです。奴隷経験のある人が言うのですから、きっとそれは多くの人に当てはまる事なのでしょう。
どんな境遇であれ、どんな状況であれ、自由に生きるためのコツは、覚醒することなのだと思います。
そんなお話を、最近、Clubhauseで時々やっております。(飽きたらやめるかも…)
タイミングよくこの―ページに出会った方には、このリンクからどうぞ。
2021年6月29日18時スタート(約一時間の予定)
https://www.clubhouse.com/event/PraWoeXl
田村薫kaoru tamura ID @kao345
Yuka Wakabayashi ID @shiawase_shacho
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