後継者・跡継ぎはとても厳しい環境の中に身を置いているように感じてしまいます。
社内では、親とのバトルを繰り返し、それを遠巻きに見ている社員とは距離を感じる。社外ではありもしないことでねたまれ、何かを成し遂げても社長の息子だから、と軽くあしらわれる。
もし、そんな感覚を持っているとしたら、ちょっとした実験にお付き合いください。
この写真の人は何をしているのかを言葉で表現してみてください。
いかがですか?
何が言いたいのかはこの後、お伝えしていきたいと思います。
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Contents
私たちは必ずしも「事実」を見ていない
「事実」は文脈の中で解釈される
先ほどの写真の実験、皆さんはいかが考えられましたか?一般的には、山道の中でヒッチハイクをしている、とみられた方が多いのではないでしょうか。確かにそう見える画像ですが、逆に、こんな説明を加えたらどうでしょうか?
写真に写ってる人物に、後ろから撮影者が語り掛けています。
「山道、結構きついけど大丈夫?」
その瞬間撮った写真がこれです。
そういう前提であれば、Good!のサインで親指を立てているようにも見えませんか?
そもそもこの画像を説明するなら、山道の中でパーカーを着た人物が、親指を立てている、ということだけが事実で、ヒッチハイクにしても、Goodの際にしてもそれを見る私たちが勝手に意味づけしているものです。
もうひとつ、考えてみましょう。
以下の架空の文章の( )の中を埋めてみてください。
私は、Aさんと待ち合わせしていたが、30分経っても現れない。
きっと( )にちがいない。
この空欄をたとえば「Aさんが時間を間違えた」と入れる人もいれば、「自分が時間を間違えた」と入れる人もいるかもしれません。電車が遅れたとか、急用ができたとか、心配が高じると「事故にあった」なんていう思いに至るかもしれません。
現実に起こったことは、相手が30分遅れたということなのですが、Aさんの性格にもよりますが一番ありそうなのは、ついついずるずる準備が遅れたとかいう程度の話でしょう。しかし、そこにいろんな意味付けをやらかしてしまいがちです。時には、「自分を軽く見ているに違いない」なんていう被害妄想に取りつかれることもあります。
同じ現実でも違う世界を生きている!?
私たちは、目の前で起こったこと、自分に向けられた言葉(場合によっては自分に向けられていなくても自分のこととして勝手に解釈した言葉)に過剰に反応して、気分を害することはよくあります。
先に挙げたAさん作文の例においても、Aさんが30分遅れたという事実が、自分の中の「Aさんに軽く見られている」という思いを引き出し、イラっと来てしまうことは結構あると思います。私たちは、事実をこういったフィルターを通して、認識しています。ヒッチハイカーの写真は、パーカーを着た人物が親指を立てているという説明では何の意味も持ちません。だから脳は、パーカーの人物の画像そのものではなく、ヒッチハイカーという意味を脳内に認識させ、格納するようにできているようです。
それは脳の活動としては非常に効率的なのですが、私たちが事実を認識するときのゆがみを産むことになってしまうのです。たんにGoodのサインをしたつもりなのに、ある人はヒッチハイカーと認識するかもしれないし、実はヒッチハイクをしていたのに、Goodサインとしか見てもらえないこともあるかもしれません。
人によってそのフィルターは違うので、ヒッチハイクフィルターの人、Goodサインのフィルターの人で違った現実を生きているといって過言ではありません。
後継者は後継者ネガティブフィルターを持っている可能性大
妬みでないことも妬みに聞こえる
自分が後継者としての立場に最も参っていた時、私はこんな状況にありました。たとえば、会社の業績が下がったといわれると、それだけで自分が責められているように感じました。何とかしなければ、といわれれば、それは自分の責任だといわれているように感じました。
忙しくて大変、と社員がもらせば、それも自分の責任。
割とメンタル的にきつい時期でした。
こういう時には、同業者で親と親交のあった人が、「お父さんはすごい」なんて話をされると、相手に悪意はないでしょうが私にとっては割と責められているとか、ねたまれているように感じてしまうわけです。
実際のところ、ねたまれるという意味では学生時代から大なり小なりありましたが、そこで妬みに過剰反応するセンサーができたのでしょう。そして、仕事をしていく中でうまくいかないことが積み重なってくるにつれ、そのセンサーは敏感になってくる。そういったネガティブなフィルターで世界を見ると、まあそこは悪の巣窟です。周囲には敵しかいません。
こうなっちゃうと、ほんと、やんでしまいまいます。
判断することを辞めてみる
そんな半ばうつ病のような状態から、今、わりと好き勝手やるようになった背景になにがあるのか、というと建設的にあきらめたんです。立場上ねたまれることもあるだろうし、仕事だってできないことだらけだし、うまく以下に事のほうが多いかもしれないけど、まあいいや、そんなもんやろ、そんな風に達観(割り切り)しました。
今すぐ同行できないことで悩まないようにしたんです。
その時に結構意識したのが、「意味」から入るのではなく、「事実」だけをまず把握する、ということです。親指を立てる画像を見て、即座に「ヒッチハイク」と断じるのではなくて、パーカー来て山道で親指立ててる人がいるね、というところでいったん止めます。止めたうえで意味を考えると、ヒッチハイクにも見えるし、Goodボタンにも見えるし。
あ、もちろん、身の回りで起こるすべてのことにこんなことしませんよ。特に気なるというか、自分の中で重いな、と感じる感情や意味を受け取った時、巻き戻して意味づけする前の状態に戻してみるんです。
元ソニーの役員で、今は私塾で経営者を指導される天外伺朗さんはまずは「判断することをやめよ」といっています。何かが起こった時に良しあしで区別するな、と。雨が降ったら、「天気が悪くなった」という良しあしではなく、「雨が降ってきたな」という事実だけを受け止める訓練を進めておられます。まさにそんな感じだと思います。
すると私たちが反応している言葉や現実の2/3くらいはあえて反応する必要のない事実だったりします。残りの1/3には何かしらの対処が必要でしょうが、それとて、できることはできるしできないことはできない。できないことをできるようになる、という努力は大事かもしれませんが、どこかで見切りをつけて、「できませんけど、なにか?」という踏ん切りも大事なように思います。
ねたむのは相手の勝手。
親の七光りをどう使うかは僕の勝手。
それでいいのではないでしょうか。
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