後継者

後継者・跡継ぎの「感情」の責任は自分にある

身近な人が、カンカンに起こっていたとしましょう。
皆さんはどうされますか?

一般的には、自分が何かしたのかな?とか、
何とかなだめたほうがいいのかな?とか、
こっちがざわざわしてしまいがちです。

しかし、良ーく考えてみてください。
その人がおこるというのは、その人の内側に起こっている事です。
そんな事の責任を、周囲の人間が責任を持てるはずがありません。

その人は怒りたいから怒っているのです。
だからドライに考えれば好きに怒らせればいい、ということになります。

 

本が出版されました!
関心を持っていただいた方は、画像をクリック。

——————————————

後継者の社交場、後継者倶楽部はこちら
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
後継者ONLINE倶楽部

「怒り」という感情の複雑さ

Wendy CorniquetによるPixabayからの画像

怒りは第二感情

家業を継ぐ後継者・跡継ぎの方のお話を伺うと、結構な確率で先代である親はかなり気が短い人であるようです。瞬間湯沸かし器のようにちょっとでも気に食わないことがあれば怒り出す。そういった親への対処に困り果てている後継者・跡継ぎの方のご相談、結構あります。ただ、ちょっと立ち止まって考えてみましょう。家の近所で子どもが遊んでいるとしたら、それだけで起こりだす人もいればそうでない人もいます。車を運転していても、割り込みされたらカッカする人もいれば、しない人もいます。同じ人で見たときも、ある時には子どもの声が気になってイライラする場合もあれば、そうでないときもあると思います。それは短気な先代に限らず、私達自身もあるはずです。いつもなら気にならない犬の鳴き声が、体調が悪かったり、物事がうまくいかないときには耳障りに感じるけど、気持ちにゆとりがあるときにはそれが愛らしくも感じる。

仕事上で、親がおこりだすとしたら、後継者・跡継ぎがちょっとした失敗をやらかしたとか、失敗というわけではないけど親が気に障る行動や、言葉を発したとか、そもそもここにいるだけで気に障るとか、そんな些細なことかもしれません。それをカリカリ怒る人もいればそうでない人もいるし、怒る時もあれば怒らないときもあるとすれば、私たちは対処する方法などありません。だからあえてこう言います。「気にするな」と。

考えてもみてください。人の感情の内側で起こっていることを、周囲の人間が責任を持てるはず等ありません。だから、怒りたい奴は、勝手に怒らせればいいのです。

いやいや、そうはいっても・・・という人も多いと思います。
そういった方には、一つのヒントをお伝えしたいと思います。怒りという感情はそれ単独で起こる感情ではないと言われています。怒りは第二感情であり、その前提として別の感情があるはずなのです。もし、怒り狂う人にうまく対処したいなら、その怒りの前にある感情を捕まえる必要があります。

店員に詰め寄るクレーム客の心理

都会で暮らしているとときおり見かける光景が、店員や駅員へのクレームを大声で語る人。こういう人たちはどう見ても怒ってるわけですが、彼らの第一感情はいったいどういうものがあるのでしょうか。これは恐らく、「自分がないがしろにされた」「自分をもっと大事に扱ってほしい」という感情があるのではないかと思います。たとえば、本来来るはずの電車が遅れた。それは仕方のない話で、まともな大人なら駅員に詰め寄ったところで何も解決しないのはわかり切っています。しかし、そういった世の中で起こることが自分をバカにしているかのような思いにさいなまれている可能性があるんじゃないかと思います。この人はきっと、周囲の人たちへの欺瞞にあふれていて、みんなが俺のことをバカにするという思いにさいなまれています。その勢いで、電車が遅れたのは、世の中が俺をバカにしてるからだ、なんとかせよ(自分を大事に扱え)という思いが目の前の駅員さんに向けられるのではないでしょうか。

こういった人もまた、勝手に世の中を敵に回して、そのはけ口を探しているという迷惑な人なわけですが、いい大人がどこかに自分の寂しさや、自己否定の感情を他人にぶつけようと虎視眈々と狙っていることはけっこうあるように思います。

この分析が正しいかどうかは実はどうでもいい話で、ここで最も大事なことはいろんなしゆえーションで怒り狂う人は、心の中で何かしらの反応があってそれが「怒り」として外に出てくる、ということです。

人の内面の責任をとることはできない

同じ風景、同じシチュエーションにあって、怒る人と怒らない人がいる。
同じ風景、同じシチュエーションにあって、怒る時と怒らないときがある。
こんな人の内面で起こることを、外にいる人たちが責任を持つことなどできるはずがありません。
たとえば、思い通りにいかない子供に対して、「泣くな!」といって涙をぬぐわせることはできても、子どもが感じている悲しさや寂しさや口惜しさを「感じるな!」といったってそれは無理な話です。
これは大人だって同じで、大事な人を失って悲しみに暮れている人に「悲しむな!」といっても、涙をぬぐうことはあっても悲しまないことはできません。

しかし、これをその人本人はコントロールすることが可能です。
たとえば、大事な人との別れを、「これは自分が成長するための試練である」と捉えるとか、「この大事な人との経験を無駄にしない」と考えるとか、起こった事象のとらえ方ひとつで、その人が感じる感情は悲しみから、別のものにかわっていく可能性はあるわけです。ずっと悲しみを抱えて生きるのもその人自身の責任ですし、それを糧にして前に進むのもその人自身の責任です。
つまり、起こる物ごとは感情を呼び覚ますきっかけでしかなく、そのきっかけをどうとらえ、自分の人生に活かしていくかは自分自身の責任です。

そう考えていると、怒っている人は、その感情を「怒らせまい」とする周囲が責任を取るのではなく、怒っている人本人がとる必要があります。ただ、実は、怒っている人は自分では気づいていませんが、怒り続けたいのです。なぜかというと、怒りという感情はその前提になる感情があると言いました。たとえば、自分をないがしろにされている、という寂しさが前提にある場合、その人は怒りを振りまくことで少なくともその間は周囲からの注目を浴びることができます。怒りという感情をあらわにすることで、注目という状況をゲットしているわけです。それに味を占めると、寂しさを感じたときには怒りを爆発させる理由を見つけて怒り狂う。そうやって寂しさを紛らわせているのです。

しかし、こういったことが根本的解決になるはずもなく、本来は本人がその寂しさを感じる自分の心の癖に対処する必要があるのですが、そこに気付くのは周囲の努力ではなく自分自身がそこに気付かなければなりません。ただ、怒りを周囲に振りまくことで、寂しさが紛らわされる周囲の反応がある以上はそのパターンを繰り返すでしょうから、怒りにビビってひれ伏すのは本人に対してもあまりいいとは言えないかもしれません。

怒る人を裏側から見てみると・・・

Zsuzsanna TóthによるPixabayからの画像

自分の感情と向き合ってみる

怒りを外に振りまく人の精神的なメカニズムがなんとなくわかったとしたら、こんどは少し自分自身の分析もしてみましょう。きっと、このブログにたどり着いた方は、何かしら家業を継ぐに際しての不都合を感じているのではないかと思います。そういった悩みの一つに、エキセントリックで怒りっぽい先代(親)への対処法に困り果てているのかもしれません。こういった人は、無意識レベルでは好きで怒っている、という話でした。では、そういった状況の中で苦しんでいる後継者・跡継ぎのメンタルとしてはどんなことが想像できるでしょうか。

これは受け入れがたい話かもしれませんが、「エキセントリックな先代との関係に困り果てている自分」というストーリーの中にあえてはまり込んでいる可能性はないでしょうか。その方が都合がいいことがある可能性があるのではないかと思うのです。たとえば、会社のことを考えて何かをやろうとしても、なかなかできないのはすぐに怒りだす親の責任だ、とか、成果が思ったほど上がらないのは親が邪魔するからだとか、自分が認められないのは親が目立とうとしすぎるからだ、とか。

内面的な感情は人それぞれと思いますが、人が同じ行動、同じ感情を繰り返すには相応の理由があるものです。顕在的に「苦しい」とおもっても、そこから本気で抜け出す行動に至らない場合、潜在的な部分で「居心地がいい」理由がある可能性があります。だからほんの少したちどまって、考えてみてほしいのです。「今の状況でいることで、自分はどんなメリットを享受しているのか?」と。

習慣を変えるのは「気づき」

人間にとって習慣というのは、恐ろしいほどパワフルです。痩せたい人がついつい食べ物に手を出してしまうのは習慣が大きいのです。おなかが空いていようがすいていまいが、とにかく何かをしたら食べ物を探すとか、ちょっと退屈したら食べ物を探すとか、そうやって食べたくもないのに食べる。これは別の感情的な何かを埋める行為だったりすることも多いと思うのですが、習慣に私たちは支配されています。私がびっくりしたのは、車に乗ってる際に電話がかかってきました。ハンズフリーはあるのですが、話に夢中になっていて電話を切った時には、いつもと同じ道を通って家に帰ってきていました。本当は帰る途中、寄り道するつもりだったのですが、習慣で家まで運転して帰ってきたようです。

それぐらいに習慣というのは私たちを自動操縦しているのですが、この操縦はだいたいパターン化されています。
親がおこりだすと、自分は必要以上にちじみあがる(体力的には親とやりあえば勝てるはずなのに)。そしてテンパってしまって、叱られるがままで言いたいことも飲み込んでしんみりする。そのたびに、こんな会社辞めてやる!と思うけど、そうするとその後の人生どう過ごしていいか見当もつかず、思いとどまる。そして、自分はこんな親の元でけっこう頑張ってるなぁと思いたいけど、どこかむなしい。とりあえずそんな嫌な出来事は忘れたくて趣味に没頭するか、あるいは仕事上の勉強に没頭するか。そして自分なりにまた頑張った日々を送るのですが、そこで親がおこりだし・・・というループが繰り返し再生されているかもしれません。

こういった、習慣・パターン化から抜け出すには、まずは「気づき」が必要です。
あ、自分、なんかいつものパターンにハマってるな、と気づかなければまた今回も同じパターンを繰り返します。そして、パターンが見えたら、どこのステップを変えればループを抜け出せるか考えてみます。そして後はそのループを抜ける努力をするのみです。

バカバカしく思われるかもしれませんが、多くの人はこういったループを延々と繰り返していても自分では気づきにくいものです。なぜ気付きにくいかというと、自分の痛みを感じることからは眼を逸らそうとするからです。ここで勇気を振り絞って、自分の痛みや弱みをしっかりと見極めるつもりで、自分の行動パターンを見てみてはいかがでしょうか。
ちなみに私の場合は、「自分が仕事上何の貢献もできていないのではないか」という恐れがあり、その恐れと向き合えない間は同じループを繰り返していました。

自分の感情は自分で責任を

怒る人は好きで怒っている。だから、怒らせておけばいい。
初めにそんなことをお伝えしましたが、後継者の立場に対して悲壮感を感じているのも自分自身の責任でそうしているのです。そこには、そういう状況でいることが都合がいい側面もないとは言えないなにかが奥底にある可能性があるように思います。もちろんそうでない人もいるのかもしれませんが、一度は疑ってみる必要はあるように思います。

もし、そんな「都合のよさ」があるとしたら、まずは自分がそのことに気付き、「しんどいから抜け出したい」という思いと「こういう理由でここにいたがっている」という裏の自分をしるとその綱引きがイメージできるようになります。それを知らずして、ただ「抜け出したい」という思いだけを意識していてもうまくはいきません。はじめに状況をしっかりと把握し、抜け出したいという思いと今の状況を心地よいと感じている無意識な感情の折り合いをつけていく必要があります。多くの場合この感情の折り合いをつけず、表面的な思いだけで動こうとするから力尽きてしまうのではないかと思います。

後継者・跡継ぎの親や周囲との関係問題は実は、外の世界と怒っている問題ではなく、本人の内側で起こっている問題なのです。この事を知ると、ずいぶんと物事が理解できるようになるのではないかと思います。

 

——————————————

後継者としての生き方に迷ったら、同じ境遇の仲間と意見交換しませんか。
よかったら、後継者専用オンラインコミュニティにお越しくださいませ。
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
後継者ONLINE倶楽部

 

本が出版されました!
関心を持っていただいた方は、画像をクリック。

——————————————

■後継者向けセミナー開催日程はこちら

 

 

 

関連記事

  1. 10秒の壁と後継者

  2. 葛藤を感じたならそれが今の限界であることを知ろう

  3. 自分の専門分野×家業の専門分野でできる後継者の未来

  4. 人の成長には痛みが伴う?

  5. 後継者が会社をどう変えていくかをシンプルに考えてみる

  6. 跡継ぎに「やる気」はいらない

  7. 家業を継ぐ後継者・跡継ぎと親の面倒をだれが見る問題

  8. 後継者が”正しいこと”を追求し始めると親子の確執が生まれるというジレン…