前回、バカ息子は決断する事から逃げ惑う【長い長いプロフィール(2)】では、初めての職場をどこにするか?という決定プロセスについてお伝えしました。
今回はいよいよ、後継者としての初仕事。
ここで私は、人生初ともいえる挫折を味わう事になります。
京都の同業者に特別研修生として入社した私。
入社3日目から飛び込み営業が始まりました。
毎日200件。
私は父が自分に課したという件数を回ることを決意し、京都の町での営業をスタートしました。
同期は5人、一人は1年ほどこの業界の仕事を経験していますが、他はみんな素人です。
1件目、留守。
2件目、留守。
という事で、結局暗くなるまで歩き詰めましたが、まともに話せたお宅はなかったように記憶しています。
家に帰ると、慣れない革靴で1日歩くものですから、足の裏には水ぶくれができます。
かかとと指の付け根。
この水ぶくれが、歩いている際に破れると厄介なので針でつぶし、翌朝、痛む足をかばいながら出社する。
翌日は、反対の足が水ぶくれを起こして大変なんですが、数日間は変な歩き方をしてたのではないかと思います。
さすがにこれでは大変だ、と京都にアパートを借りましたが、部屋の中に用意したものは、冷蔵庫と最低限の食器とフライパン。後は布団と、数セットのスーツだけ。
エアコンもなければ、テレビもなく、さすがに夏場に扇風機を買った時には嬉しかったのを覚えています。
夕食は、昼に会社で取っていただいた仕出し弁当(380円)を持ち帰り食べていました。
家に帰ると近所のコインランドリーで洗濯し、アイロンを当てて風呂に入る。
それが日課でした。
幸いにして、私はどうやら住環境には全く無頓着なタイプのようで、当時はそんなに不自由を感じることはありませんでした。
むしろ、誰にも干渉されない環境が、うれしいくらいでした。
しかし、仕事の方はなかなか上手く行きません。
1日目は同期の誰一人まともな成果はなかったようです。
そして、2日目、3日目・・・とチーム全員成果はありません。
さすがにまずい、と思った上司は
「個人宅ではなく、商店に行くように」
と指示を変更しました。
さすがに留守はないものの、やはりまともに話せることさえ毎日ゼロに近い状態でした。
私としては、かつて学習教材の話なら100件も回れば、2~3件は話を聴いてもらえた経験があったので、何かがおかしいとは感じていました。
しかし、その正体をつかむことはできず、やはり「こんにちは。」「さようなら。」を繰り返すしかありません。
初めの1週間は、上司も「まあそんなもの」と悠長に構えていましたが、2週間を経過しても5人全員がなんの成果はおろかまともな面談ができていないことに焦り始めました。
その頃、営業から会社に帰ってきた私たちは、同期社員同士、お互いの目を確認しあい成果がなかった様子を見てとるとホッとしていました。
そこで上司も業を煮やし、「どうせ、成果が出ないなら大物一発狙いを」と今度は企業訪問に内容をシフトします。
実は、この時にお世話になっていた会社は、明治生命(現:明治安田生命)の現役トップセールスマンの方が経営される会社でした。
その方は、ほぼ毎日、私たちが事務所に帰ると声をかけてくださります。
2時間も・・・。
そして、自身のご経験の話をしてくださるのです。
「セールスは断られたときにはじまる。」
こういわれれば、私たちはお客さんに断られても、断られても食いつきました。
結果、塩をまかれたり、水をまかれたりして撃退されます。
「訪問した企業には何かしら印象付けるよう工夫する。」
こういわれれば、わざと名刺入れを忘れてきたり、して次回の訪問につなげたり、ある同僚はズボンのファスナーを開けたまま企業訪問しよう!なんていう事を実践しました。
「自分を売り込め」
といわれたときには、私は思わず反論しました。
社会経験もなく、知識のない私たちに売るものなんてありません!と(苦笑)
「お客さんのリストは銀行が握っている」
といわれれば、地銀の本店に行き、アポなし飛び込み訪問で、銀行の課長に「お客さんを紹介してください!」と直談判。
「で、あなたは何を提供してくれますか?」と聞かれ、あわわ・・・となったところ、銀行の課長から「普通はね・・・」と通知預金と引き換えに顧客紹介をしているという商習慣を教えて頂いたこともありました。
しかし、私は次第に、このトップセールスマンの方の有難いお話の最中に、居眠りをするようになり始めました。
100人を前にした講演会でもなく、たった5人の目の前で話されている重鎮を前に居眠りです。
恐らく、心がシャットアウトしていたのでしょう。
色んな意味でボロボロですね。
自分で書いてて不甲斐なさにあきれてきます。
この時に強く感じたのは、いきなり出だしでつまづいて、果たして後継者としての役割が務まるのだろうか。
数か月、頑張ってきたつもりではあるものの、まともにお客さんと話す機会はゼロに等しい状態で、業務知識もついていなければ、営業もできない。
焦りと不安ばかりが入り混じり、やっぱりこの仕事は向いていなかったのではないだろうか・・・という思いが去来していました。
夏が過ぎるころ、同期の一人が、様々な問題を抱え京都を去りました。
それを機に、この特別研修生プロジェクトは解散。
皆それぞれの道を進むこととなります。
この時上手く行かなかった原因のもっとも大きなポイントは、私自身の意識の問題だったのではないかと思います。
後がない、という切羽詰まった状態で、心に余裕がない。
そうすると、やっとあえたお客さんにも自分都合の話を押し付ける事しかしない。馬鹿の一つ覚え状態です。
まったく自分の事しか考えていない状態では、お客さんも逃げてしまいます。
これが、学習教材のようなお客さんが「ほしい」「学んでみたい」というニーズがある商品ならともかく、保険という「できれば買わずに済ませたい」という商品の特性もあるでしょう。
今考えると、この時の挫折体験は、自分にとって非常におおきなターニングポイントだったと感じています。
多分、私が学習教材のセールスを成功させたのち、その勢いで保険セールスも上手く行ってしまったら、自分がセールスでヒーローになる事しか考えなかったでしょう。
経営者ではなく、ただの営業マンとしてのスキルアップしか考えなかったと思います。
ここで植え付けられた営業への苦手意識は、その後、様々な事を考えるきっかけとなったと思います。
さて、この時期の自分にアドバイスするとすれば、次の三つ。
1.わからないことを自分だけで解決しようとするな
実は、教えを請えば親切に教えて頂ける先輩がその会社にはたくさんいました。本来なら、上手く行かないのであれば先輩に相談すればよいはずなのに、その考えさえ当時は浮かびませんでした。おかげであまりに視野の狭い状態で、ただまっすぐに突っ走る事しかしてません。そういったとき、誰かを頼るというと誤解を生むかもしれませんが、教えを請うという選択肢も必要なのではなかったか、と今更ながら感じています。
2.追い詰められた時こそ視点を変えてみよう
この時の心理状態は、上手く行くと思っていたことが上手く行かない現実についての焦り。そして、将来にわたって、このままではいけないという焦り。後継者であるから、この仕事を投げ出すわけにはいかないというプレッシャー。今の自分からみてみると、少しは考えろよ、ともどかしく思うのですが、考えた結果が「名刺入れを忘れてくる」というあまりに稚拙な行動(^^;いろんな状況に抑圧されて、もはや強迫観念に追われている状態でした。当時も、例えば営業の本を読んでみるとか、セミナーに参加するという選択肢はあったはずです。しかし、そんな発想さえ浮かばなかったのは、まさに思考停止状態。そんな時には、物事の見方を少しだけ変えてみるだけで、打開策は見つかるものです。
余談ですが、後にいろんな気付きをもたらすこの当時の状況で、当時もっとも私に恩恵をもたらしたのが、「毎日の徒歩&自転車営業」によるダイエット効果でした。
高校三年生当時のピークで86kgだった体重は、この時65kgに。
身長が180㎝なので、標準より少し細めのスリムな体になりました。
本気で、ダイエットビジネスを始められないかなぁと考えていたように記憶してます。
今は、過去のピークを楽々乗り越えていますが・・・。
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